中山博道先生

略歴

明治22年十七歳の時、高沢某の支援にて上京、齊藤理則師に就き剣術を修行す。偶々、神田小川町神道無念流第六代根岸信五郎剣術師範を訪れ、碁を囲むこと度重なりて昵懇となり、遂に剣術の指南を受ることゝなり寵愛さるるに至る。
明治24年四月、根岸師に本入門し、更に本格的修行鍛錬に熱中し始める。但し、生来病弱勝なる身の療養と克服に努め乍ら、適正な効果的剣術の修行に専念。
明治28年二十三歳、準免許を受く。同年神道無念流渡辺昇子爵の提唱で、全國の武術家を網羅して武徳会が誕生した時、根岸師に追従し之が創設に活躍。
明治32年二十七歳。免許を受く。
明治33年二十八歳のとき根岸家に嗣子なき故、相続の為養子となり縁組、入籍し根岸資信と改め、生涯剣道家として世に立つべく覚悟する。同年東京府下王子、大林愼三氏長女とき子を娶り、仝年一子を挙げ信吉と名付く。
明治36年郷里金澤中山家に於て、突然止むを得ぬ事情が起こり、養父根岸師と合議の上離婚、中山本家を相続し姓名も中山博道と改めた。併し根岸師との養父関係は情的に益々濃厚となる。
明治38年三十三歳、根岸師を後見として本郷真砂町に道場を建て、剣道・居合・杖術の修行と幾多の名士有志門人を集めて指南に尽した。傍、師の一生を慮り淀橋の一角に隠居の邸宅を建て安住を願った。仝年剣道と抜刀術の密接性を深く悟り、土佐に至り森本免久身師及び五藤派の方々につき、居合術の研鑚と修行を強く開始。
明治45年四十歳、筑前國内田良五郎先生並に竹田幸八先生に就き、神道夢想流杖術の傳援を受け、後に警視庁、諸官庁、学校、会社及び一般団体に広く奨め、平和武道として普及発展に尽し現在の隆盛に至らしめた。
大正元年四十歳、武徳会に於て大日本帝國剣道形が制定された時の最高権威者であり、斯道に最も薀奥深く最年長者たりし根岸師と共に、委員として参画貢献。
大正2年神道無念流流祖福井兵右衛門の創始に依る、居合立居合剣術兵法神道無念流第六代根岸信五郎師より相傳を授り、当流第七代を継承。同年九月十三日根岸信五郎師逝去。根岸師は弘化元年一月新潟に生る。行年七十歳。墓地、東京と麻布天真字寺。戒名、有信院殿顕揚祖道無念大居士。師の最後まで万全の孝養を尽した。
大正5年十二月、四十四歳、板垣退助伯爵の知遇斡旋により、夢想神傳流第十七世土佐の細川義昌師の門に入り、他見他言・他流混同を禁じ、神と師に誓い独慎、専ら修行に専念。
大正6年吹上御苑天覧試合に審判を奉仕。
大正9年五月。四十八歳、武徳会総裁宮より剣道範士並に居合道範士の称号を賜り壱等功労賞を授かり、叉各委員の役を仰付けられる。
大正11年夢想神傳重信流第十七世細川義昌師より相傳を授り、当流第十八世継承。
大正12年二月二十四日、細川義昌師逝去。行年七十四歳。嘉永二年十一月十日土佐に生れる。墓地、高知県吾川郡春野村秋山。
昭和2年五月、五十五歳、武徳会総裁宮より杖道範士の称号を賜る。
昭和4年於宮中、御大禮記念天覧試合で形及び審判役を奉仕。
昭和7年六十歳、本郷真砂町三二に有信館本部道場新築。
昭和8年二月十一日紀元節、新築有信館本部道場の落成記念大会を開催、梨本宮殿下御台臨、荒木陸相、鳩山文相、鈴木将軍、教育総監、警視総監等著名士の来賓多数を迎え、友人知己門人数百名参列式典終了後、演武を盛会裡に終了、畢生の一大行事であった。
昭和8年十二月二十八日、皇太子御誕生。
昭和9年五月五日、宮中歳寧館に於て、皇太子御誕生奉祝昭和天覧試合が開催され、形及び高野茂義先生と特選試合の外、審判の役を奉仕。
昭和12年六十六歳、林崎抜刀術夢想神傳重信流を京都武徳殿に於て公に発表。
昭和21年七十四歳、大戦終結に伴い、武徳会の解散、仝役員の免除、続いて戦犯容疑を蒙り横須賀拘置所に入り、無罪追放となる。戦後は、剣道関係団体の等の形式的な役などを務めた。敗戦の打撃は老の身に大きく響き、経済的にも破綻を生じ、遂に由緒深き有信館本部道場を 放棄せざるの止む無きに至り、関係者門人と共に血涙の惜別をする。
昭和27年八十歳んみ至り健康優れず体躯は衰微す、坂口、花井、山東各病院を廻診したるも衰弱を辿るのみであった。さらに千葉、花井、小野三博士の診断の結果脳軟化症と診断、日大付属病院に入る。此の間に妻とき子平塚にて逝去。仝市今宿清水山薬師寺に眠る。

昭和33年十二月十四日、病窓に於て門人村井千松教士に見護られ、眠るが如く大往生を遂げた。 行年八十六歳。

指導経歴

官公庁宮内省・海軍省・鉄道省・警視庁・東京市
大学帝國大学・慶應大学・中央大学・法政大学・明治大学・二松学舎・大東亞学院
企業三井・三菱及び同関係諸会社

有信館支部

東京市深川・市ヶ谷
広島県呉市
山口県防府市
岐阜県岐阜市
福島県福島市
千葉県木更津市
朝鮮羅南

中山師の門人知友の他景仰する人、全國に幾万を超ゆるやその数計り難し。中に岩崎小弥太、三井八郎右衛門、服部重太郎、早川千吉郎、野口遵、矢野恒吉、三井守之助、小室三吉、森村市左衛門、林銑十郎、今村繁三、渋沢栄一、近藤滋弥、赤星鉄馬、畠山一清、松平恒雄、渡辺七郎、浜口雄幸、奈良武次、岡田啓介、此の他多数の名士有志門人の支援実に大なるものあり。三井、三菱両社の援助叉少なからざるものがあった。老後発病するや陰に陽に有志門人の手厚き扶養あり、叉最後まで身辺に付き添い護りたるものあり。詢に感激に堪えず。種子生じざれば繁栄親木にて止るとか、師の終焉は慨嘆に餘りあるものあれども、人徳詢に崇高偉大なる師は、親愛なる門人に護られ安らかに永眠したのである。

顧るに、師は常に以文武造人、以其人護國、と云った。文武の人、政治家、実業家と接し宗教家に会し善識を把握し、平和武道の発揚と皇室中心に生涯を捧げた明治、大正、昭和にかけての大剣聖であった。

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